地形と歴史を変えた六本木ヒルズ(散策):森ビルの再開発手法の是非/埋もれた階段/ママン/ 我善坊谷の再開発
- 2018/11/11
- 08:25
今回は、「六本木トライアングルを散策」シリーズの第5弾として、地形や歴史を変えた六本木ヒルズを取り上げます。
森ビルの再開発に関する私の考えを述べているので「日々思うこと」のカテゴリにしています。
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(地形・歴史を変えた六本木ヒルズ)
六本木ヒルズは、森ビルが事業者となって平成15年(2003年)に開業した複合商業施設で、
地下鉄六本木駅から地下道を通って、長いエレベーターを登ると、

六本木ヒルズの広場(66プラザ)の中に、待ち合わせ場所としても使われている巨大クモのオブジェ「ママン」があります。

このオブジェは、フランス出身の女性彫刻家ルイーズ・ブルジョアの作品で、
高さ10メートルを超えるブロンズ製の体内に20個の白く輝く大理石の卵を抱えており、

(薄気味悪く感じる人もいると思いますが)作者ルイーズ・ブルジョアの自身の母親への憧憬が込められているそうです。
ママンは「母」の意味だったのです。
この「ママン」に近くには、同じく巨大なパブリック・アートである一輪の真っ赤な「薔薇」があります。

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さて、東京ミッドタウン・国立新美術館と同じく、この六本木ヒルズのある敷地は、江戸時代には大名屋敷がありました(ただし、軍事施設になったことはありません)。
長州藩毛利家の分家の上屋敷で、日ヶ窪と呼ばれる傾斜地に屋敷と日本庭園がありました(下の写真は長府毛利家上屋敷跡の解説板)。

長州藩毛利家の庭園があった場所には、戦後ニッカウヰスキーに買収され、「ニッカ池」の愛称で親しまれていました。
しかし、六本木ヒルズの再開発で、江戸時代から続く由緒ある池は埋められ、現在の庭園の下に埋没してしまいました(←六本木ヒルズにより地形・歴史が変えられた事例の一つです)。
下の写真は現在の毛利庭園です。

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なお、元禄時代には、この毛利藩邸では上の解説板に書かれているように、赤穂浪士10名を預かり屋敷内で切腹しています。
また、長府藩出身の乃木希典もここで生まれています(下の写真は「さくら坂公園」にある乃木大将生誕の碑)

(六本木ヒルズ開発前の様子)
先程、この地には日ヶ窪と呼ばれる傾斜地があったと書きました。
傾斜地の下は谷戸(やと)と呼ばれる「窪地」があり、江戸時代は下級役人の組屋敷や町人地となり、大正時代は庶民の住宅地が立ち並んでいました。
窪地にある湿地帯で、地下水や湧水が豊富にあったので、江戸時代から金魚の養殖が行われており、六本木ヒルズ再開発があるまで金魚池が残っていました。
作家の岡本かの子は麻布を舞台にした小説「金魚繚乱(きんぎょりょうらん)」(昭和12年発表)で日ヶ窪を次のように描写しています(「地図と愉しむ東京歴史散歩」(竹内正浩著)より引用)。
「遅咲きの桜草や、早咲きの金蓮華が、小さい流れの岸まで、まだらに咲き続けてゐる。小流れには谷窪から湧く自然の水で、復一のような金魚飼育商にとっては、第一に家業の拠りどころになるものだった。その水を枝にひいて、七つ八つの金魚池があった」
今ある六本木ヒルズ界隈の風景からは想像できない光景ですが、六本木ヒルズができるまではこのような光景が残っていたわけです。
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(クワガタやカブトがいた)
六本木ヒルズの自治会長によれば、再開発が始まる平成11年(1999年)まで「原安太郎商店」という湧き水を利用した金魚屋があり、下町の風情があったそうです。
週刊ポストに掲載されたその方の言葉を引用します。
「ヒルズの開発工事が始まる1999年まで「原安太郎商店」という金魚屋をやっていました。ご近所さんからは原金って呼ばれてね。江戸時代(天保11年)創業の金魚卸商で5代目でした。金魚はヨーロッパでも人気があってロンドン支店もあったんです。
6丁目は下町の風情があった。うちは玄碩坂という坂の下の窪地にあって綺麗な水に恵まれていた。金魚屋やるのに適していて、いい水を求めて人が集まる土地でした。昔といっても25年前まで、この辺にクワガタとかカブトムシがいたんですよ。
夜になるとフクロウがホーホー鳴いてね。私も子供の頃、毛利庭園の池でオタマジャクシをとったものです。」(週刊ポスト2013年6月21日号)
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東大の赤門近くにある文京区本郷に「菊坂」という情緒のある坂道がありますが、この坂を降りると下の写真のような金魚屋があり,

下町風情のある商店街や木造住宅があります。


六本木ヒルズの開発が始まる前の日ヶ窪地区は、このような下町情緒のある地区だったのではないかと想像されます。
(再開発前の様子を残す痕跡)
六本木ヒルズ再開発前の様子を残す痕跡が残っています。
六本木ヒルズ脇の道に、下の写真のような廃墟化した民家があります。

この廃墟化した民家の横に、埋もれた階段があり、高台と谷戸(窪地)の高低差を人工的に土で埋めた痕跡として残っています。


この階段は、今でも地元の人が利用しているようです。
また、この家には不自然な窪地があり(下の写真)、

よく見ると郵便受けらしいものや木製のドアが見られ、以前はここが「1階部分」だったことが分かります。

「埋もれた階段」が埋もれる以前は、その階段はこの「1階部分」まであったと考えられます。
すなわち、住居1階分の盛り土をして、六本木ヒルズ周辺の地形が変わってしまったことの証拠をここで見ることができます。
(我善坊谷での再開発)
六本木の麻布郵便局裏にある我善坊谷(がぜんぼうだに)と呼ばれる地区で、現在、森ビルは再開発を行っています。
六本木ヒルズの日ヶ窪と同じく、我善坊谷は窪地(谷戸)で、明暦の大火以降、身分の低い武士の宅地として開発されました。
このため、江戸時代の面影を残すクランク状の道が今でも残っています(下の写真)。

このようなクランク状の道は、武家地だった場所によく見られるもので、江戸の防御のために、攻め込んできた敵が一気に攻め込めないようにする工夫として作られたものです。
このような歴史ある我善坊谷地区も地上げが始まっていて、居住者のほとんどが立ち退いた状態になっており、

一部では開発が進められています。

我善坊谷には下の写真のような階段もあるのですが、

六本木ヒルズのように埋め立てられてしまうのかもしれません。
なお、森ビルによる我善坊谷での再開発については、「麻布・我善坊谷を散策」でも書いていますので、ご関心のある方はこちらの記事も御覧ください。
(森ビルの開発手法の評価)
森ビルによるこのような土地の改変には賛否両論があるようですが、
そこにある地形を前提に、江戸・東京と続いた歴史・伝統が根こそぎ失われたという点で、私は否定的です。
防災面でプラスだったという議論がありますが、歴史・伝統に配慮しつつ、防災面を強化することはいくらでもできたと思います。
六本木ヒルズの建設にあたっては地権者からの反対運動が起き、六本木トライアングルを散策で書いたように、地権者との交渉が終わるまで17年もかかったそうですが、地元住民からの大きな抵抗があったことが伺えます。
華やかに見える六本木ヒルズの隠れた歴史として、このことは記録として残しておくべきだろうと思います。
関連記事:「麻布・我善坊谷を散策」
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