六本木トライアングルを散策:東京ミッドタウン/檜町公園/SMAP/裏六本木
- 2018/10/25
- 08:06
今回のシリーズでは、六本木にある3つの代表的な建物(東京ミッドタウン・国立新美術館・六本木ヒルズ)の散策を通じて六本木の成り立ちを探ってみたいと思います。

六本木といえば、一昔前は夜の繁華街、今ではお洒落なブティックが立ち並ぶビジネス街というイメージではないかと思いますが、
戦前は、軍隊の施設(歩兵第一連隊、歩兵第三連隊)があり、赤坂の近衛歩兵第三連隊とともに昭和11年(1936年)に起きた二・二六事件の主要な舞台となりました。
戦後はそれらの施設をアメリカの進駐軍が接収しています(赤坂の歩兵第三連隊のみは民間に払い下げられ、現在は赤坂サカスやTBSなどになっています)。
このように、六本木は戦前及び戦後の一時期までは「軍都」だったのですが、その名残が六本木にはまだありますので、それらについても見ていきたいと思います。
第1回の今回は、「東京ミッドタウン」周辺の散策です。

☆☆☆
(東京ミッドタウン建設までの経緯)
東京ミッドタウンは平成19年(2007年)に防衛庁跡地の再開発事業としてオープンしました。
軍(注)の施設である「防衛庁」が出てきましたが、さらに遡れば、江戸時代は長州藩毛利家中屋敷だった場所です。
(注)アメリカの軍事力評価機関によれば日本の自衛隊は世界第7位の軍事力を有すると評価されており、実質的には軍隊であると私は考えています。日本に友好的でない複数の核保有国が近隣に存在し、「具体的な脅威」が現実問題としてあることを考えれば、自衛隊を軍隊として捉えることは国民の生命と財産を守るための国益に合致すると思います。
後で詳しく説明しますが、場所の変遷を図式で示すと、
「長州藩毛利家下屋敷」⇒⇒「陸軍歩兵第一連隊兵舎」⇒⇒「米軍の接収(米軍兵舎)」⇒⇒「防衛庁」⇒⇒「東京ミッドタウン」+「檜町公園(ひのきちょうこうえん)」
という変遷をたどりました。
このため、約400人もの地権者との交渉に17年もかかった六本木ヒルズと異なり、
東京ミッドタウンは地権者の数が少なかったため、跡地の落札から竣工まで数年しかかからなかったそうです。
(檜町公園)
東京ミッドタウンに隣接する、港区立の檜町公園(ひのきちょうこうえん)は旧防衛庁跡地の一部ですが、

SMAPの草彅剛(草なぎ剛)が、平成21年(2009年)4月に全裸泥酔事件を起こし、駆けつけた警察官に公然わいせつ容疑で逮捕された公園でもあります。
SMAPといえば、この東京ミッドタウンのそばに堺正章の経営する炊肉店「炭火焼肉 An」があるのですが、

ここは、SMAP解散時にSMAPメンバーによる、キムタク(木村拓哉)抜きの宴会が行われたレストランです。
このようなことから推測すると、SMAPメンバーはこの六本木界隈に住んでいるのではないでしょうか。
☆☆☆
芸能関係の話はこのくらいにして、歴史に話を戻しますと、
この檜町公園の中に、以前この地に陸軍歩兵第一連隊があったことを示す碑があります。
「歩一の跡」碑です。

碑文の裏には、

と書かれていました。
また、檜町公園の入り口に「旧町名由来版」があり、この地域の由来が簡潔に書かれていますが、それを補足説明しますと、

江戸時代に毛利家の屋敷だったときは檜(ひのき)が多かったことから「檜屋敷」と呼ばれており(檜町公園の名前の由来はここから来ています)、
元和元年(1864年)の禁門の変によって、幕府に没収され10日ほどで敷地内のすべての家屋が取り壊されてしまいました。
しばらくは茶畑となり、庭園の周りは庶民の憩いの場となっていましたが、明治5~17年(1872年~84年)にかけて陸軍歩兵第一連隊の兵舎になり、
戦後はアメリカ軍に接収されて兵舎として使われ、昭和35年(1960年)の日本政府への返還後は防衛庁となりました。
私が学生の頃、六本木のような繁華街になぜ防衛庁があるのか不思議に思っていましたが、六本木は元々「軍隊の街」だったことを踏まえれば、不思議ではなかったわけです(当時は、防衛省ではなく防衛庁でした)。
地元の人によれば、当時、防衛庁への出入りは厳しくなく、防衛庁の中にあるクリーニング屋さんは仕事が丁寧だったので、そのクリーニング屋さんに洗濯物を預けるため自由に出入りしていたそうです。
しかし、平成7年(1995年)3月の地下鉄サリン事件後は、警備が厳しくなり、自由な出入りはできなくなったそうです。
防衛庁となった後、平成19年(2007年)から東京ミッドタウンとなったことは上で書きました。
毛利屋敷だったころの庭園は陸軍・アメリカ軍・防衛庁時代も残り、現在は港区が管理する檜町公園となっています。
☆☆☆
檜町公園は下の写真のように、見事な池がある庭園があります。

江戸時代は「清水園」と呼ばれ、江戸の大名屋敷の中でも名園の一つに数えられていたそうです。
風情のある休憩所(写真左)があり、その休憩所からの池の眺め(写真右)が素晴らしいです。

この休憩所にも、公園由来の説明板があります。

また、斬新なデザインのブランコやすべり台があり、家族連れが楽しんでいました。

(裏六本木的な場所)
先程ご紹介した堺正章の経営する炊肉店「炭火焼肉 An」を奥に進んでいくと、昭和の雰囲気が残る飲食店街があります。昔の六本木はこのような飲食店街が多くあり、六本木といえば少し怖いイメージがあったものです。
また、東京ミッドタウン前の外苑東通りを挟んで向かい側には、かつて麻布龍土町(あざぶりゅうどちょう)と呼ばれた区域があり、昭和30年代を思わせるような狭い路地、家並みが現在も残されています(下の写真)。
また、下の写真のような廃墟化した家もあります。この廃墟化した家はだいぶ前からあるのですが、長い期間廃墟化し、放置されている経緯などは不明です。

なお、面白いことに、東京ミッドタウンのような超近代的でお洒落な再開発ビルのそばには、このような廃墟化した家がよくあります。
六本木ヒルズのそばには、下の写真のような廃墟化した家があり、

赤坂サカスのそばにも、下の写真のような廃墟化した家があります、

現代版の「六本木・赤坂七不思議」を作るとしたら、これらの廃墟化した家がこの七不思議に入るかもしれません。
次回は「東京ミッドタウン」の中を散策してみます。
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戦前は、軍隊の施設(歩兵第一連隊、歩兵第三連隊)があり、赤坂の近衛歩兵第三連隊とともに昭和11年(1936年)に起きた二・二六事件の主要な舞台となりました。
戦後はそれらの施設をアメリカの進駐軍が接収しています(赤坂の歩兵第三連隊のみは民間に払い下げられ、現在は赤坂サカスやTBSなどになっています)。
このように、六本木は戦前及び戦後の一時期までは「軍都」だったのですが、その名残が六本木にはまだありますので、それらについても見ていきたいと思います。
第1回の今回は、「東京ミッドタウン」周辺の散策です。


☆☆☆
(東京ミッドタウン建設までの経緯)
東京ミッドタウンは平成19年(2007年)に防衛庁跡地の再開発事業としてオープンしました。
軍(注)の施設である「防衛庁」が出てきましたが、さらに遡れば、江戸時代は長州藩毛利家中屋敷だった場所です。
(注)アメリカの軍事力評価機関によれば日本の自衛隊は世界第7位の軍事力を有すると評価されており、実質的には軍隊であると私は考えています。日本に友好的でない複数の核保有国が近隣に存在し、「具体的な脅威」が現実問題としてあることを考えれば、自衛隊を軍隊として捉えることは国民の生命と財産を守るための国益に合致すると思います。
後で詳しく説明しますが、場所の変遷を図式で示すと、
「長州藩毛利家下屋敷」⇒⇒「陸軍歩兵第一連隊兵舎」⇒⇒「米軍の接収(米軍兵舎)」⇒⇒「防衛庁」⇒⇒「東京ミッドタウン」+「檜町公園(ひのきちょうこうえん)」
という変遷をたどりました。
このため、約400人もの地権者との交渉に17年もかかった六本木ヒルズと異なり、
東京ミッドタウンは地権者の数が少なかったため、跡地の落札から竣工まで数年しかかからなかったそうです。
(檜町公園)
東京ミッドタウンに隣接する、港区立の檜町公園(ひのきちょうこうえん)は旧防衛庁跡地の一部ですが、

SMAPの草彅剛(草なぎ剛)が、平成21年(2009年)4月に全裸泥酔事件を起こし、駆けつけた警察官に公然わいせつ容疑で逮捕された公園でもあります。
SMAPといえば、この東京ミッドタウンのそばに堺正章の経営する炊肉店「炭火焼肉 An」があるのですが、


ここは、SMAP解散時にSMAPメンバーによる、キムタク(木村拓哉)抜きの宴会が行われたレストランです。
このようなことから推測すると、SMAPメンバーはこの六本木界隈に住んでいるのではないでしょうか。
☆☆☆
芸能関係の話はこのくらいにして、歴史に話を戻しますと、
この檜町公園の中に、以前この地に陸軍歩兵第一連隊があったことを示す碑があります。
「歩一の跡」碑です。

碑文の裏には、

「當公園一帯は江戸時代長州藩毛利侯の下屋敷であった
明治7年歩兵第1聯隊がここに創設され以来67年間東京および近縣の郷土部隊として明治大正昭和に亘って駐屯しこの門をくぐった人々は夥しい数にのぼる
乃木将軍は第2代の聯隊長であった
ここに出身者有志相集って本碑を建てて永くその跡を留める
昭和38年秋」
と書かれていました。
また、檜町公園の入り口に「旧町名由来版」があり、この地域の由来が簡潔に書かれていますが、それを補足説明しますと、

江戸時代に毛利家の屋敷だったときは檜(ひのき)が多かったことから「檜屋敷」と呼ばれており(檜町公園の名前の由来はここから来ています)、
元和元年(1864年)の禁門の変によって、幕府に没収され10日ほどで敷地内のすべての家屋が取り壊されてしまいました。
しばらくは茶畑となり、庭園の周りは庶民の憩いの場となっていましたが、明治5~17年(1872年~84年)にかけて陸軍歩兵第一連隊の兵舎になり、
戦後はアメリカ軍に接収されて兵舎として使われ、昭和35年(1960年)の日本政府への返還後は防衛庁となりました。
私が学生の頃、六本木のような繁華街になぜ防衛庁があるのか不思議に思っていましたが、六本木は元々「軍隊の街」だったことを踏まえれば、不思議ではなかったわけです(当時は、防衛省ではなく防衛庁でした)。
地元の人によれば、当時、防衛庁への出入りは厳しくなく、防衛庁の中にあるクリーニング屋さんは仕事が丁寧だったので、そのクリーニング屋さんに洗濯物を預けるため自由に出入りしていたそうです。
しかし、平成7年(1995年)3月の地下鉄サリン事件後は、警備が厳しくなり、自由な出入りはできなくなったそうです。
防衛庁となった後、平成19年(2007年)から東京ミッドタウンとなったことは上で書きました。
毛利屋敷だったころの庭園は陸軍・アメリカ軍・防衛庁時代も残り、現在は港区が管理する檜町公園となっています。
☆☆☆
檜町公園は下の写真のように、見事な池がある庭園があります。


江戸時代は「清水園」と呼ばれ、江戸の大名屋敷の中でも名園の一つに数えられていたそうです。
風情のある休憩所(写真左)があり、その休憩所からの池の眺め(写真右)が素晴らしいです。


この休憩所にも、公園由来の説明板があります。

また、斬新なデザインのブランコやすべり台があり、家族連れが楽しんでいました。


(裏六本木的な場所)
先程ご紹介した堺正章の経営する炊肉店「炭火焼肉 An」を奥に進んでいくと、昭和の雰囲気が残る飲食店街があります。昔の六本木はこのような飲食店街が多くあり、六本木といえば少し怖いイメージがあったものです。

また、東京ミッドタウン前の外苑東通りを挟んで向かい側には、かつて麻布龍土町(あざぶりゅうどちょう)と呼ばれた区域があり、昭和30年代を思わせるような狭い路地、家並みが現在も残されています(下の写真)。



また、下の写真のような廃墟化した家もあります。この廃墟化した家はだいぶ前からあるのですが、長い期間廃墟化し、放置されている経緯などは不明です。

なお、面白いことに、東京ミッドタウンのような超近代的でお洒落な再開発ビルのそばには、このような廃墟化した家がよくあります。
六本木ヒルズのそばには、下の写真のような廃墟化した家があり、

赤坂サカスのそばにも、下の写真のような廃墟化した家があります、

現代版の「六本木・赤坂七不思議」を作るとしたら、これらの廃墟化した家がこの七不思議に入るかもしれません。
次回は「東京ミッドタウン」の中を散策してみます。
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