清澄白河のレトロを散策(2):三野村ビル/ 大嶽部屋/北の湖部屋/陸奥宗光邸/清洲橋/リューロ/平賀源内電気実験の地/セメント工業発祥の地碑
- 2018/10/17
- 18:12
前回の清澄白河のレトロを散策(1)では、清澄白河駅から中村学園まで歩きました。
今回は、さらに進んで清洲橋界隈を散歩します。
(三野村ビル)
中村学園から歩いていくと、右手にいかにも昭和レトロといった趣の「三野村ビル」があります。

幕末から明治にかけて、「三井の大番頭」と言われた三野村利左衛門が大正3年(1914年)に設立した合名会社(現在は株式会社)として、昭和初期に建てられたものです。

東京大空襲のときは200人の人々がこのビルに逃げ込み、防火にあたってビルが残ったそうです。
入り口に施されたテコラッタの装飾がとても優美です。

入り口脇には「第七回江東区まちなみ景観賞」の碑がありました。

この建物はドラマや映画の撮影にもよく使われているそうです。
(横綱通り)
この「三野村ビル」の脇には「横綱通り」があります。

この通りの界隈は、大鵬や北の海など横綱を輩出した相撲部屋があるので、昔から「横綱通り」と呼ばれているようです。
46ある相撲部屋のうち(貴乃花部屋があったときは47でしたが、貴乃花部屋が消失したため、現在は46となりました)、江東区には相撲部屋が6つあります。
それでは、横綱通り近くにある「大嶽部屋」と「北の湖部屋」を見てみましょう。
(大鵬道場大嶽部屋、北の湖部屋)
「大鵬道場 大嶽部屋」です。

「大鵬道場 大嶽部屋」は先程の「三野村ビル」のすぐ後ろにありますが、三井と大鵬は関係が深かったため、大鵬部屋設立にあたっては、三井関係者(三野村ビル関係者)から土地の提供があったそうです。
「北の湖部屋」です。

どういうわけか「北の湖部屋」の看板がありませんでしたが、「北の海」の名前を関した焼酎のポスターが貼られていました(笑

(ドラゴ)
清澄通りに戻ると、「三野村ビル」と通りを隔てて、貴闘力が経営する焼肉店「ドラゴ」があります。

味・ボリューム文句なしとテレビで紹介されたお店のようです。
(陸奥宗光邸)
さらに隅田川方向に進むと、下の写真のようなビルがあります。明治40年(1907年)操業の老舗物流会社「帝国倉庫」のビルです。

この帝国倉庫の敷地には、明治時代の外交を仕切った外交官・政治家の陸奥宗光が明治5年(1872年)から同10年(1877年)まで住んでいた邸宅がありました。
その解説板が帝国倉庫ビルの前に立っています。

隅田川に面した眺望の素晴らしい邸宅だったそうです。
陸奥宗光は「カミソリ大臣」と呼ばれ、不平等条約の改正に辣腕をふるいましたが、
その夫人・陸奥亮子は新橋の芸者でした。
陸奥の妻となってからは、英語を猛勉強し外国人も驚く語学力だったそうです。
陸奥亮子は、その美貌・個人的魅力・話術によって「鹿鳴館の華」とも呼ばれ、陸奥の仕事を陰で支えました。
(清洲橋)
眼の前には、隅田川にかかる橋の中で最も美しいと言われる、国の重要文化財「清洲橋」があります。

しかし、現在は塗装工事が行われており(平成31年11月21日まで)、その美しい姿を見るのは1年先になりそうです。

清洲橋は、関東大震災後の復興計画に基づき、昭和3年(1928年)にかけられました。
ドイツ・ケルン市のライン河にかかるヒンデンブルグ橋をモデルにしたと言われています。
中央区側(当時は日本橋区)の中洲町と江東区側(当時は深川区)の清住街の「洲」と「清」をとって「清洲橋」と命名されました。
(リューロ:ピットマンズ)
この「清洲橋」手前の道を左に曲がると、リューロ(LYURO)というホテルがあり(中の写真は清洲橋から見たリューロ)、

このホテルにあるピットマンズ(PITMANS)という、隅田川に面した、お洒落なレストランがあります。

このピットマンズでランチを食べたのですが、このランチについては別の記事(隅田川テラスのレストランでランチ:ピットマンズ)でご紹介しますので、そちらをお読み下さい。
(平賀源内電気実験の地)
このリューロの前に道をへだてて、「平賀源内電気実験の地」の碑があります。

語学に通じ文才に優れ、数々の発明をした平賀源内は、江戸・深川清住町(現在の清澄一丁目)に住んでいました。
安永5年(1776年)に、オランダ製のエレキテル(静電気発生装置)の構造を解明し、たびたび実験を行い人々に見せましたが、その由来を刻んだ碑です。
(セメント工業発祥の地碑)
「平賀源内電気実験の地碑」横の道を左に曲がると、アサノコンクリート株式会社・深川工場敷地内に、
「セメント工業発祥の地碑」や関連モニュメントが道路沿いに置かれています。

もともと、ここは官営セメント工場として始まり、後に浅野セメントに払い下げられたことから、浅野総一郎の銅像があります。

この他に、明治27年(1894年)に製造し、37年間海中にあったにもかかわらず、損傷のないコンクリートブロックも展示されています。

これで、「清澄白河のレトロを散策」シリーズは終了します。ここまでお読みいただきありがとうございました。
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今回は、さらに進んで清洲橋界隈を散歩します。
(三野村ビル)
中村学園から歩いていくと、右手にいかにも昭和レトロといった趣の「三野村ビル」があります。


幕末から明治にかけて、「三井の大番頭」と言われた三野村利左衛門が大正3年(1914年)に設立した合名会社(現在は株式会社)として、昭和初期に建てられたものです。

東京大空襲のときは200人の人々がこのビルに逃げ込み、防火にあたってビルが残ったそうです。
入り口に施されたテコラッタの装飾がとても優美です。


入り口脇には「第七回江東区まちなみ景観賞」の碑がありました。

この建物はドラマや映画の撮影にもよく使われているそうです。
(横綱通り)
この「三野村ビル」の脇には「横綱通り」があります。


この通りの界隈は、大鵬や北の海など横綱を輩出した相撲部屋があるので、昔から「横綱通り」と呼ばれているようです。
46ある相撲部屋のうち(貴乃花部屋があったときは47でしたが、貴乃花部屋が消失したため、現在は46となりました)、江東区には相撲部屋が6つあります。
それでは、横綱通り近くにある「大嶽部屋」と「北の湖部屋」を見てみましょう。
(大鵬道場大嶽部屋、北の湖部屋)
「大鵬道場 大嶽部屋」です。


「大鵬道場 大嶽部屋」は先程の「三野村ビル」のすぐ後ろにありますが、三井と大鵬は関係が深かったため、大鵬部屋設立にあたっては、三井関係者(三野村ビル関係者)から土地の提供があったそうです。
「北の湖部屋」です。

どういうわけか「北の湖部屋」の看板がありませんでしたが、「北の海」の名前を関した焼酎のポスターが貼られていました(笑

(ドラゴ)
清澄通りに戻ると、「三野村ビル」と通りを隔てて、貴闘力が経営する焼肉店「ドラゴ」があります。


味・ボリューム文句なしとテレビで紹介されたお店のようです。
(陸奥宗光邸)
さらに隅田川方向に進むと、下の写真のようなビルがあります。明治40年(1907年)操業の老舗物流会社「帝国倉庫」のビルです。


この帝国倉庫の敷地には、明治時代の外交を仕切った外交官・政治家の陸奥宗光が明治5年(1872年)から同10年(1877年)まで住んでいた邸宅がありました。
その解説板が帝国倉庫ビルの前に立っています。

隅田川に面した眺望の素晴らしい邸宅だったそうです。
陸奥宗光は「カミソリ大臣」と呼ばれ、不平等条約の改正に辣腕をふるいましたが、
その夫人・陸奥亮子は新橋の芸者でした。
陸奥の妻となってからは、英語を猛勉強し外国人も驚く語学力だったそうです。
陸奥亮子は、その美貌・個人的魅力・話術によって「鹿鳴館の華」とも呼ばれ、陸奥の仕事を陰で支えました。
(清洲橋)
眼の前には、隅田川にかかる橋の中で最も美しいと言われる、国の重要文化財「清洲橋」があります。



しかし、現在は塗装工事が行われており(平成31年11月21日まで)、その美しい姿を見るのは1年先になりそうです。

清洲橋は、関東大震災後の復興計画に基づき、昭和3年(1928年)にかけられました。
ドイツ・ケルン市のライン河にかかるヒンデンブルグ橋をモデルにしたと言われています。
中央区側(当時は日本橋区)の中洲町と江東区側(当時は深川区)の清住街の「洲」と「清」をとって「清洲橋」と命名されました。
(リューロ:ピットマンズ)
この「清洲橋」手前の道を左に曲がると、リューロ(LYURO)というホテルがあり(中の写真は清洲橋から見たリューロ)、



このホテルにあるピットマンズ(PITMANS)という、隅田川に面した、お洒落なレストランがあります。


このピットマンズでランチを食べたのですが、このランチについては別の記事(隅田川テラスのレストランでランチ:ピットマンズ)でご紹介しますので、そちらをお読み下さい。
(平賀源内電気実験の地)
このリューロの前に道をへだてて、「平賀源内電気実験の地」の碑があります。

語学に通じ文才に優れ、数々の発明をした平賀源内は、江戸・深川清住町(現在の清澄一丁目)に住んでいました。
安永5年(1776年)に、オランダ製のエレキテル(静電気発生装置)の構造を解明し、たびたび実験を行い人々に見せましたが、その由来を刻んだ碑です。
(セメント工業発祥の地碑)
「平賀源内電気実験の地碑」横の道を左に曲がると、アサノコンクリート株式会社・深川工場敷地内に、
「セメント工業発祥の地碑」や関連モニュメントが道路沿いに置かれています。


もともと、ここは官営セメント工場として始まり、後に浅野セメントに払い下げられたことから、浅野総一郎の銅像があります。

この他に、明治27年(1894年)に製造し、37年間海中にあったにもかかわらず、損傷のないコンクリートブロックも展示されています。


これで、「清澄白河のレトロを散策」シリーズは終了します。ここまでお読みいただきありがとうございました。
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