清澄白河のレトロを散策(1):清洲寮/臨川寺/中村学園
- 2018/10/15
- 07:21
今回は、江東区にある清澄白河駅(東京メトロ、都営地下鉄)から隅田川まで散策してみます。
「清澄白河(きよすみしらかわ)」という変わった地名ですが、これは
この地を開拓した「清住弥兵衛」の姓の「清住」と、
寛政の改革を行った「松平定信」の墓がこの地の霊源寺にあり、「松平定信」が白河藩の出身だったことから、その「白河」
に由来します(なお、昭和7年(1932年)、「清住」は「「清澄」に改称されています)。
下の写真は、江東区深川の名所を歩く(2)で霊源寺にある「松平定信」の墓を訪れたときの写真です。

☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆
昭和20年(1945年)3月20日の米軍による東京大空襲で、江東区を含む下町地域は灰燼に帰しましたが、
それでも、いくつかの建物は残りました。
今回の散歩では、このようなレトロな建物を訪れるとともに、その周辺の見どころを見ていきたいと思います。
なお、この「東京大空襲」では、一般市民の死者数は10万人以上、罹災者は100万人を超えました。
広島の原爆での死者数は約14万人、長崎の原爆の死者数は約7万4000人ですから、広島・長崎の原爆に匹敵する凄まじい規模の犠牲者を出しました。
しかも、この東京大空襲は、米軍の先発隊が40平方kmの周囲にナパーム弾を投下して火の壁を作り、一般市民が逃げられないようにして、その閉じ込められた人々の頭上に焼夷弾を無差別に投下するという残虐な方法で行われました。
これは婦女子を含む非戦闘員への大量殺戮と言って差し支えない行為だったと思います。
☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆
(清洲寮)
清澄白河駅のB1出口を出ると、目の前に「清洲寮」があります。

昭和8年(1933年)に建てられた鉄筋コンクリート4階建てのアパートで、部屋数は66戸、できた当初は「ハイカラ住宅」と評判だったそうです。
いたるところに昭和レトロを見ることができますので、それらを見ていきましょう。
駐車場の注意書きは、「一、地下槽又ハ移動槽に連絡スル漏洩ノ虞ナキ・・・」というように、明治・大正時代に使われていた「漢字カタカナ交じり文」です(下の写真)。

同じく駐車場ですが、標識がカタカナで「ク」「キ」「カ」とカタカナで書かれています。

棟を示す標識もカタカナです。

中央出入り口はカラータイルが貼られ、壁のタイル装飾、木製の扉がレトロな趣を感じさせます。

他にも昭和レトロが満載です。

「昭和の集合住宅」という不動産会社の広告が壁に貼られていました。ご検討されてはいかがでしょうか(笑

(清澄通り沿いのレトロな建物)
江東区深川の名所を歩く(2)でご紹介した、同じく空襲を免れたレトロな建物が立ち並ぶ場所が、この近くの「清澄通り」沿いにあります。

名前が似ている通りなので紛らわしいのですが、清澄白河駅前の交差点は、「清洲通り」と「清洲橋通り」が交差していますのでご注意下さい。

(臨川寺)
清洲橋通りを、隅田川方向に歩いていくと、
左手に、同じく江東区深川の名所を歩く(2)でご紹介した、松尾芭蕉ゆかりのお寺である「臨川寺(りんせんじ)」があります。

深川に住んでいた松尾芭蕉は臨川寺の仏頂和尚と親交が厚く、たびたび参禅に通ったと伝えられています。
このため、臨川寺には松尾芭蕉ゆかりの碑があり、

上を見上げると、芭蕉の有名な俳句「古池や蛙飛びこむ水の音」をもじったオブジェでしょうが、思わず微笑みたくなるカエルのオブジェがあります。

(中村学園)
臨川寺からほんの少し先に、「中村学園」の校舎があります。

明治42年(1909年)設立された女子高校(当時は女子高等女学校)で、それまでは隅田川の東側には女子高等学校がなかったため、隅田川を渡らずに女子が高等学校に通えるようにとの考えで設立された学校です。
中村学園の正面玄関は清澄公園側にあります。

(続きます)
☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆
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「清澄白河(きよすみしらかわ)」という変わった地名ですが、これは
この地を開拓した「清住弥兵衛」の姓の「清住」と、
寛政の改革を行った「松平定信」の墓がこの地の霊源寺にあり、「松平定信」が白河藩の出身だったことから、その「白河」
に由来します(なお、昭和7年(1932年)、「清住」は「「清澄」に改称されています)。
下の写真は、江東区深川の名所を歩く(2)で霊源寺にある「松平定信」の墓を訪れたときの写真です。

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昭和20年(1945年)3月20日の米軍による東京大空襲で、江東区を含む下町地域は灰燼に帰しましたが、
それでも、いくつかの建物は残りました。
今回の散歩では、このようなレトロな建物を訪れるとともに、その周辺の見どころを見ていきたいと思います。
なお、この「東京大空襲」では、一般市民の死者数は10万人以上、罹災者は100万人を超えました。
広島の原爆での死者数は約14万人、長崎の原爆の死者数は約7万4000人ですから、広島・長崎の原爆に匹敵する凄まじい規模の犠牲者を出しました。
しかも、この東京大空襲は、米軍の先発隊が40平方kmの周囲にナパーム弾を投下して火の壁を作り、一般市民が逃げられないようにして、その閉じ込められた人々の頭上に焼夷弾を無差別に投下するという残虐な方法で行われました。
これは婦女子を含む非戦闘員への大量殺戮と言って差し支えない行為だったと思います。
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(清洲寮)
清澄白河駅のB1出口を出ると、目の前に「清洲寮」があります。


昭和8年(1933年)に建てられた鉄筋コンクリート4階建てのアパートで、部屋数は66戸、できた当初は「ハイカラ住宅」と評判だったそうです。
いたるところに昭和レトロを見ることができますので、それらを見ていきましょう。
駐車場の注意書きは、「一、地下槽又ハ移動槽に連絡スル漏洩ノ虞ナキ・・・」というように、明治・大正時代に使われていた「漢字カタカナ交じり文」です(下の写真)。

同じく駐車場ですが、標識がカタカナで「ク」「キ」「カ」とカタカナで書かれています。


棟を示す標識もカタカナです。

中央出入り口はカラータイルが貼られ、壁のタイル装飾、木製の扉がレトロな趣を感じさせます。


他にも昭和レトロが満載です。



「昭和の集合住宅」という不動産会社の広告が壁に貼られていました。ご検討されてはいかがでしょうか(笑

(清澄通り沿いのレトロな建物)
江東区深川の名所を歩く(2)でご紹介した、同じく空襲を免れたレトロな建物が立ち並ぶ場所が、この近くの「清澄通り」沿いにあります。

名前が似ている通りなので紛らわしいのですが、清澄白河駅前の交差点は、「清洲通り」と「清洲橋通り」が交差していますのでご注意下さい。

(臨川寺)
清洲橋通りを、隅田川方向に歩いていくと、
左手に、同じく江東区深川の名所を歩く(2)でご紹介した、松尾芭蕉ゆかりのお寺である「臨川寺(りんせんじ)」があります。

深川に住んでいた松尾芭蕉は臨川寺の仏頂和尚と親交が厚く、たびたび参禅に通ったと伝えられています。
このため、臨川寺には松尾芭蕉ゆかりの碑があり、

上を見上げると、芭蕉の有名な俳句「古池や蛙飛びこむ水の音」をもじったオブジェでしょうが、思わず微笑みたくなるカエルのオブジェがあります。

(中村学園)
臨川寺からほんの少し先に、「中村学園」の校舎があります。

明治42年(1909年)設立された女子高校(当時は女子高等女学校)で、それまでは隅田川の東側には女子高等学校がなかったため、隅田川を渡らずに女子が高等学校に通えるようにとの考えで設立された学校です。
中村学園の正面玄関は清澄公園側にあります。

(続きます)
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