鎌倉・妙本寺で比企一族の悲話を思う(散策):日蓮上人辻説法跡/琴弾橋
- 2018/09/14
- 08:48
今回は、北鎌倉・円覚寺散策に続く鎌倉散策第2弾として、日蓮聖人を開山(初代)として文応元年(1260年)に創建された「妙本寺」を散策してみます。
また、日蓮聖人ゆかりの史跡として「日蓮辻説法跡」にも行ってみたいと思います。
隠れた歴史を探し出すような「東京散歩」と異なり、鎌倉は歴史の方から押し寄せてくるような街で、書きづらいところがあるのですが、
なんとか書いていきたいと思います。
☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆
(妙法寺総門)
鎌倉駅東口を出て、8分ほど歩くと妙本寺の総門に着きます。

この総門は、天保年間に建立され、関東大震災で倒壊しましたが、大正14年(1925年)に再建されたものです。
なお、妙本寺での入館料(拝観料)は志納であり、鎌倉の他のお寺のように支払いが義務付けられている入館料(拝観料)はありません⇒実質的に無料で、拝観料を支払う受付もありません。
(妙法寺二天門)
総門から、木々が鬱蒼と茂る参道を歩きます。
この「妙本寺」がある地域は「比企ガ谷(ひきがやつ)」と呼ばれますが、鎌倉時代から「山水納涼の地」であり、夏の暑い日でもこの参道に入ると、とても涼しく感じます。
私が訪れたときは夏の暑い盛りでしたが、多くの木々に囲まれた参道に入った途端涼しく感じられました。
参道の先には、天保11年(1840年)に建立された「二天門」があります。

仏教の守護神である四天王のうち、持国天(向かって右)、毘沙門天(向かって左)をお祀りしていることから「二天門」と呼ばれています。
また、大変美しい龍の彫刻が掲げられています。

(比企一族の悲話)
この「二天門」を過ぎると、比企一族供養塔(写真下)などがありますが、

ここで比企一族について説明しなければなりません。
「家系」という視点で見ると、鎌倉幕府の歴史は「源氏」、「北条氏」、「比企氏」の3つ氏族の権力闘争を軸にして動いていました。
この「妙本寺」がある場所には、源頼朝挙兵以来の功臣である比企能員(ひき よしかず)の館がありました。
比企能員は二代将軍である源頼家の乳母父であり、娘の若狭局が頼家の側室となって嫡子「一幡(いちまん)」を産み、
この「一幡」は三代将軍になることが約束されていたことから、二代将軍・頼家の外戚として権勢を強めました。
これに対し、頼家の弟・「千幡(せんまん)」(後の源実朝)を擁立しようとする北条時政が、比企氏の台頭を恐れ、仏事と称して比企能員を私邸に招き謀殺し、
これに怒った比企氏は「一幡」を擁して北条勢と戦いましたが、戦いに敗れ一族800余人は滅ぼされました。
この時、「一幡」はわずか6歳でした。
この戦いを「比企の乱」(建仁3年(1203年)といいますが、
昔の高校の教科書を引っ張り出してみたのですが、比企一族の記述はありませんでした。
比企一族は滅亡したので史料も少なく、歴史に埋もれた感がありますが、
しかし、このような埋もれた歴史を散策しながら紐解くのは「東京散歩」と似たところがあります。
なお、比企一族は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、現在の埼玉県比企郡(及び東松山市)を領した一族です。
(比企氏と日蓮聖人との関係)
この悲惨な戦いから半世紀、奇跡的に生き残った比企氏の遺児である比企能本(ひき よしもと)は、京都で儒学者となり鎌倉の「比企ガ谷」の旧地に戻ってきましたが、
この鎌倉で、当時布教活動をしていた日蓮に出会い帰依しました。
そして、この「比企ガ谷」に法華堂を創建し、のちの妙本寺の前身となりました。
(祖師堂)
天保9年(1838年)建立された祖師堂です。

この祖師堂には、日蓮聖人存命時の制作とされる「日蓮聖人像」が祀られています。
この「日蓮聖人像」は、日法上人の作で、池上本門寺・身延久遠寺とともに、一本の木で彫られた「一本三体のお像」とも呼ばれています。
(比企一族関連の史跡)
妙本寺は比企一族の菩提寺ですので、上で述べた比企一族のお墓の他にも、関連の史跡があります。
「比企の乱」の乱で、一幡も焼け死にましたが、一幡が着ていた小袖が焼け残り、その小袖を葬ったとされる「一幡の袖塚」があります。

☆☆☆
源頼家と若狭局(比企能員の娘)との間に生まれたとされる竹御所の墓、

竹御所は一幡の同母妹で、媄子(よしこ)とも言われます。比企の乱で生き延び、ひっそりと暮らしていましたが、
第四大将軍・藤原頼経に嫁いだ後、難産の末死去しました。これにより源頼朝の直径子孫は完全に断絶しました。
☆☆☆
方丈門のそばに案内図がありますが、

門に入らず、左脇の細い道を登っていくと、頼家の妻である若狭局を蛇苦止神として祀る「蛇苦止堂(じゃくしどう)」があり、
「蛇苦止堂」のそばには、「比企の乱の際、家宝を抱いて飛び込み、蛇に化身したとされる蛇苦止(じゃくし)の井があります。

吾妻鑑によれば、七代執権・北条政村の娘が若狭局の霊に祟られ、まるで蛇のような狂態をみせ、加持祈祷によって快復したとされています。
この若狭局の霊をなだめるため、北条政村はこの若狭局を蛇苦止神として祀る「蛇苦止堂(じゃくしどう)」を建てました。
また、この「蛇苦止の井」は、名越にある「六方の井」(妙本寺南東の丘陵を越えた場所にある井戸)ともつながっており、今も大蛇が二つの井戸を往復していると言われています。
(怨霊思想)
丸の内・八重洲のちょっと知らない史跡・見どころ(2)で、
朝廷に反逆した平将門が討ち死にし、首が京都でさらされていましたが、その首がここ(東京都千代田区大手町)まで飛んできたという伝説に基づく「将門の首塚」をご紹介し、

その怨霊思想が現代の日本にも引き継付がれていることを書きました。
上でご紹介した「蛇苦止堂」もまさに、日本古来からある怨霊思想によるものです。
なお、日本の怨霊思想については、「東大にもあった怨霊思想(散策)」で私の考えを書きましたので、ご関心のある方はこちらの記事をお読みください。
(日蓮聖人銅像)
妙本寺は、身延山久遠寺・池上本門寺と並ぶ日蓮宗最古の古刹ですが、その妙本寺境内を見守るように、日蓮聖人銅像が立っています。

それでは、次に、日蓮ゆかりの史跡として「日蓮上人辻説法跡」を見に行きます。
(琴弾橋)
途中、鎌倉では珍しい朱色が印象的な「琴弾橋(ことひきばし)」を渡ります。

当時は、橋の正面の小高い丘に琴引の松があったと伝えられ、この松の枝が風に揺れるとき、琴を弾くような美しい音色を奏でたと言われています。
この琴弾橋は映画やドラマのロケ地でも有名で、人力車観光で訪れる場所でもあります。
(日蓮上人辻説法跡)
琴弾橋を渡ると、若宮大路の東を並行する古道である「小町大路」に出ます。

当時の小町大路は武家の屋敷と商家が混在していたと言われ、多くの人々が行き来していたので辻説法の場所として最適だったと考えられます。
現在の小町大路は幅員6メートルほどですが、当時は倍ほどの11メートルあったそうです。
この「小町大路」に面して、「日蓮上人辻説法跡」があります。

以前、「日蓮上人御腰掛石」は転々とし、路傍に打ち捨てられている様を見た田中智学(日蓮主義による宗教活動を行った宗教家)が整備した史跡です。
なお、「小町大路」は、若宮大路の西側を並行して走る、観光化された「小町通り」(写真下)とは全く別の路です。

☆☆☆
鎌倉散歩を書くとどうしても長文になってしまいます。長文記事をここまでお読みいただきありがとうございました。
┏○゙ブログランキングに参加しています。クリックしていただけると励みになります┏○゙
また、日蓮聖人ゆかりの史跡として「日蓮辻説法跡」にも行ってみたいと思います。
隠れた歴史を探し出すような「東京散歩」と異なり、鎌倉は歴史の方から押し寄せてくるような街で、書きづらいところがあるのですが、
なんとか書いていきたいと思います。
☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆
(妙法寺総門)
鎌倉駅東口を出て、8分ほど歩くと妙本寺の総門に着きます。


この総門は、天保年間に建立され、関東大震災で倒壊しましたが、大正14年(1925年)に再建されたものです。
なお、妙本寺での入館料(拝観料)は志納であり、鎌倉の他のお寺のように支払いが義務付けられている入館料(拝観料)はありません⇒実質的に無料で、拝観料を支払う受付もありません。
(妙法寺二天門)
総門から、木々が鬱蒼と茂る参道を歩きます。
この「妙本寺」がある地域は「比企ガ谷(ひきがやつ)」と呼ばれますが、鎌倉時代から「山水納涼の地」であり、夏の暑い日でもこの参道に入ると、とても涼しく感じます。
私が訪れたときは夏の暑い盛りでしたが、多くの木々に囲まれた参道に入った途端涼しく感じられました。
参道の先には、天保11年(1840年)に建立された「二天門」があります。

仏教の守護神である四天王のうち、持国天(向かって右)、毘沙門天(向かって左)をお祀りしていることから「二天門」と呼ばれています。
また、大変美しい龍の彫刻が掲げられています。

(比企一族の悲話)
この「二天門」を過ぎると、比企一族供養塔(写真下)などがありますが、

ここで比企一族について説明しなければなりません。
「家系」という視点で見ると、鎌倉幕府の歴史は「源氏」、「北条氏」、「比企氏」の3つ氏族の権力闘争を軸にして動いていました。
この「妙本寺」がある場所には、源頼朝挙兵以来の功臣である比企能員(ひき よしかず)の館がありました。
比企能員は二代将軍である源頼家の乳母父であり、娘の若狭局が頼家の側室となって嫡子「一幡(いちまん)」を産み、
この「一幡」は三代将軍になることが約束されていたことから、二代将軍・頼家の外戚として権勢を強めました。
これに対し、頼家の弟・「千幡(せんまん)」(後の源実朝)を擁立しようとする北条時政が、比企氏の台頭を恐れ、仏事と称して比企能員を私邸に招き謀殺し、
これに怒った比企氏は「一幡」を擁して北条勢と戦いましたが、戦いに敗れ一族800余人は滅ぼされました。
この時、「一幡」はわずか6歳でした。
この戦いを「比企の乱」(建仁3年(1203年)といいますが、
昔の高校の教科書を引っ張り出してみたのですが、比企一族の記述はありませんでした。
比企一族は滅亡したので史料も少なく、歴史に埋もれた感がありますが、
しかし、このような埋もれた歴史を散策しながら紐解くのは「東京散歩」と似たところがあります。
なお、比企一族は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、現在の埼玉県比企郡(及び東松山市)を領した一族です。
(比企氏と日蓮聖人との関係)
この悲惨な戦いから半世紀、奇跡的に生き残った比企氏の遺児である比企能本(ひき よしもと)は、京都で儒学者となり鎌倉の「比企ガ谷」の旧地に戻ってきましたが、
この鎌倉で、当時布教活動をしていた日蓮に出会い帰依しました。
そして、この「比企ガ谷」に法華堂を創建し、のちの妙本寺の前身となりました。
(祖師堂)
天保9年(1838年)建立された祖師堂です。


この祖師堂には、日蓮聖人存命時の制作とされる「日蓮聖人像」が祀られています。
この「日蓮聖人像」は、日法上人の作で、池上本門寺・身延久遠寺とともに、一本の木で彫られた「一本三体のお像」とも呼ばれています。
(比企一族関連の史跡)
妙本寺は比企一族の菩提寺ですので、上で述べた比企一族のお墓の他にも、関連の史跡があります。
「比企の乱」の乱で、一幡も焼け死にましたが、一幡が着ていた小袖が焼け残り、その小袖を葬ったとされる「一幡の袖塚」があります。

☆☆☆
源頼家と若狭局(比企能員の娘)との間に生まれたとされる竹御所の墓、


竹御所は一幡の同母妹で、媄子(よしこ)とも言われます。比企の乱で生き延び、ひっそりと暮らしていましたが、
第四大将軍・藤原頼経に嫁いだ後、難産の末死去しました。これにより源頼朝の直径子孫は完全に断絶しました。
☆☆☆
方丈門のそばに案内図がありますが、

門に入らず、左脇の細い道を登っていくと、頼家の妻である若狭局を蛇苦止神として祀る「蛇苦止堂(じゃくしどう)」があり、

「蛇苦止堂」のそばには、「比企の乱の際、家宝を抱いて飛び込み、蛇に化身したとされる蛇苦止(じゃくし)の井があります。


吾妻鑑によれば、七代執権・北条政村の娘が若狭局の霊に祟られ、まるで蛇のような狂態をみせ、加持祈祷によって快復したとされています。
この若狭局の霊をなだめるため、北条政村はこの若狭局を蛇苦止神として祀る「蛇苦止堂(じゃくしどう)」を建てました。
また、この「蛇苦止の井」は、名越にある「六方の井」(妙本寺南東の丘陵を越えた場所にある井戸)ともつながっており、今も大蛇が二つの井戸を往復していると言われています。
(怨霊思想)
丸の内・八重洲のちょっと知らない史跡・見どころ(2)で、
朝廷に反逆した平将門が討ち死にし、首が京都でさらされていましたが、その首がここ(東京都千代田区大手町)まで飛んできたという伝説に基づく「将門の首塚」をご紹介し、

その怨霊思想が現代の日本にも引き継付がれていることを書きました。
上でご紹介した「蛇苦止堂」もまさに、日本古来からある怨霊思想によるものです。
なお、日本の怨霊思想については、「東大にもあった怨霊思想(散策)」で私の考えを書きましたので、ご関心のある方はこちらの記事をお読みください。
(日蓮聖人銅像)
妙本寺は、身延山久遠寺・池上本門寺と並ぶ日蓮宗最古の古刹ですが、その妙本寺境内を見守るように、日蓮聖人銅像が立っています。

それでは、次に、日蓮ゆかりの史跡として「日蓮上人辻説法跡」を見に行きます。
(琴弾橋)
途中、鎌倉では珍しい朱色が印象的な「琴弾橋(ことひきばし)」を渡ります。


当時は、橋の正面の小高い丘に琴引の松があったと伝えられ、この松の枝が風に揺れるとき、琴を弾くような美しい音色を奏でたと言われています。
この琴弾橋は映画やドラマのロケ地でも有名で、人力車観光で訪れる場所でもあります。
(日蓮上人辻説法跡)
琴弾橋を渡ると、若宮大路の東を並行する古道である「小町大路」に出ます。

当時の小町大路は武家の屋敷と商家が混在していたと言われ、多くの人々が行き来していたので辻説法の場所として最適だったと考えられます。
現在の小町大路は幅員6メートルほどですが、当時は倍ほどの11メートルあったそうです。
この「小町大路」に面して、「日蓮上人辻説法跡」があります。


以前、「日蓮上人御腰掛石」は転々とし、路傍に打ち捨てられている様を見た田中智学(日蓮主義による宗教活動を行った宗教家)が整備した史跡です。
なお、「小町大路」は、若宮大路の西側を並行して走る、観光化された「小町通り」(写真下)とは全く別の路です。

☆☆☆
鎌倉散歩を書くとどうしても長文になってしまいます。長文記事をここまでお読みいただきありがとうございました。
┏○゙ブログランキングに参加しています。クリックしていただけると励みになります┏○゙

