水道の原点を水道橋で学ぶ(散策):お茶の水の碑/東京都水道歴史館/神田上水懸樋跡/水道橋駅/吉祥寺の由来
- 2018/09/05
- 09:48
前回のお茶の水→水道橋散策(3)では、神田駿河台を散策しましたが、
今回は「お茶の水→水道橋散策」の最終回として、水道橋に向かって散歩をしてみます。
(お茶ノ水の碑)
JR御茶ノ水駅の御茶ノ水橋口にある交番の横には「お茶の水」の由来となった「お茶の水の碑」があります。

「お茶の水」の名称は、江戸時代にこの地にあった高林寺(現在は文京区向丘に移転)の境内から水が湧き、将軍秀忠に差し上げたところ、良い水だとお褒めの言葉があったことに由来します。
☆☆☆
(神田川の開削)
お茶の水橋を渡ります。

お茶の水橋を歩きながら、左手の風景を見てください。

これは、江戸時代に人工的に開削された跡です。
先程の交番脇に設置されている町名由来の説明板には以下のような解説がありました。
この説明板にあるように、現在、飯田橋から隅田川まで流れている神田川は台地を人工的に削って、治水と江戸城の外堀の役目を果たすために作られた人工河川であることが分かります。
クレーンやパワーショベルのような重機がなかった時代に人力だけでこれだけの大工事をしたのですから、大変な作業であったと思います。
(東京都水道歴史館)
お茶の水橋を渡って水道橋方向に進みます。右手に順天堂大学があります。その裏手に「東京都水道歴史館」がありますので、立ち寄ってみます。

近現代の東京の水道、江戸上水の歴史などを展示した歴史館で、大変充実した歴史館です。
江戸時代の水道管(木樋(もくひ))や長屋の井戸端の原寸大ジオラマがありました。

(室内の撮影は許可されています)
近現代のコーナーでは、日本最大級の水道管などが展示されています。

(神田上水懸樋跡)
神田川沿いの外堀通りに戻り歩いていくと、左側に「神田上水懸樋跡」があります。

この懸樋のジオラマが「東京都水道歴史館」にありましたので下に掲載します。

(室内の撮影は許可されています)
このジオラマを見ると江戸時代当時の神田川の様子がよく分かるのですが、この懸樋を神田川に架けて、江戸市内に給水していました。
(蒲焼屋)
この神田上水懸樋跡の右半分に江戸時代に描かれた絵があります。

その絵の中に描かれている「水小屋」部分を拡大したのが下の写真です。

この「水小屋」は幕府が民間に委託した水小屋で(江戸時代から民間委託というのはあったのですね)、神田上水の水番に従事していました。その小屋の看板に「大かば焼」という文字があります。
神田上水の水番に従事するかたわら、蒲焼屋も併設していたようで、江戸時代の微笑ましい情景が目に浮かびます。
神田川で採った鰻を料理したのですから、さぞかし美味しかったことと思います。
(市兵衛河岸跡)
さらに東京ドーム方向に進みます。東京ドームの道をへだてたあたりに「市兵衛河岸」の碑があり、この付近が神田川の水際に作られた物揚場(ものあげば)だったことが書かれています。

後ろには「神田川市兵衛河岸防災船着場」の看板もあります。緊急時にはこの船着場が利用されるのですね。

ところで、この付近には「岩瀬市兵衛」の屋敷がありました。岩瀬市兵衛は地名の由来にもなった人ですが、幕末に重要な働きをしています。
嘉永8年(1853年)ペリーの来航後、アメリカとの交渉に当たり、特にアメリカ領事ハリスと交渉して日米修好通商条約に調印した人物です。
(水道橋駅)
さて、最終目的地の水道橋駅に着きました。

写真を見ればお分かりの通り、高いところに駅が設置されています。
これは、江戸時代に作られた土塁の上に鉄道路線が敷かれたからです。
江戸時代の遺構が現代でも使われていることが分かります。
(吉祥寺)
最後に吉祥寺の話をします。水道橋北詰右手にある都立工芸高校一帯には、吉祥寺というお寺がありましたが、
この吉祥寺は、明暦3年(1657年)の明暦の大火で焼失し、現在ある駒込に移転させられ、
この吉祥寺の学林(僧侶の教育機関)を母体にして駒沢大学ができました。
お寺は駒込に移転させられましたが、門前に住んでいた住民は現在の武蔵野市東部に移住し開拓を行い、
吉祥寺に愛着のあった住民は開拓地を吉祥寺村と名付け、これが現在の武蔵野市吉祥寺となりました。
☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆
これで「お茶の水→水道橋散策」シリーズを終了します。長期間お読みいただきありがとうございました。
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今回は「お茶の水→水道橋散策」の最終回として、水道橋に向かって散歩をしてみます。
(お茶ノ水の碑)
JR御茶ノ水駅の御茶ノ水橋口にある交番の横には「お茶の水」の由来となった「お茶の水の碑」があります。

「お茶の水」の名称は、江戸時代にこの地にあった高林寺(現在は文京区向丘に移転)の境内から水が湧き、将軍秀忠に差し上げたところ、良い水だとお褒めの言葉があったことに由来します。
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(神田川の開削)
お茶の水橋を渡ります。

お茶の水橋を歩きながら、左手の風景を見てください。

これは、江戸時代に人工的に開削された跡です。
先程の交番脇に設置されている町名由来の説明板には以下のような解説がありました。
高台である「駿河台」は元来、本郷・湯島台と地続きで、その南端に位置し、「神田山」と呼ばれていました。江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな町づくりのため、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てました。しかし、埋め立てによって、それまで海に流れ込んでいた平川(神田川のもとになった川)の流れがとどこおり、下流で洪水が頻発するようになりました。そこで現在の飯田橋付近から隅田川まで、分流としての水路を確保し、あわせて江戸城の外堀の役目も果たす「神田川」が開削されたのです。(以下略)
(お茶の水交番横の「町名由来」解説板より)
この説明板にあるように、現在、飯田橋から隅田川まで流れている神田川は台地を人工的に削って、治水と江戸城の外堀の役目を果たすために作られた人工河川であることが分かります。
クレーンやパワーショベルのような重機がなかった時代に人力だけでこれだけの大工事をしたのですから、大変な作業であったと思います。
(東京都水道歴史館)
お茶の水橋を渡って水道橋方向に進みます。右手に順天堂大学があります。その裏手に「東京都水道歴史館」がありますので、立ち寄ってみます。

近現代の東京の水道、江戸上水の歴史などを展示した歴史館で、大変充実した歴史館です。
江戸時代の水道管(木樋(もくひ))や長屋の井戸端の原寸大ジオラマがありました。


(室内の撮影は許可されています)
近現代のコーナーでは、日本最大級の水道管などが展示されています。

(神田上水懸樋跡)
神田川沿いの外堀通りに戻り歩いていくと、左側に「神田上水懸樋跡」があります。

この懸樋のジオラマが「東京都水道歴史館」にありましたので下に掲載します。

(室内の撮影は許可されています)
このジオラマを見ると江戸時代当時の神田川の様子がよく分かるのですが、この懸樋を神田川に架けて、江戸市内に給水していました。
(蒲焼屋)
この神田上水懸樋跡の右半分に江戸時代に描かれた絵があります。

その絵の中に描かれている「水小屋」部分を拡大したのが下の写真です。

この「水小屋」は幕府が民間に委託した水小屋で(江戸時代から民間委託というのはあったのですね)、神田上水の水番に従事していました。その小屋の看板に「大かば焼」という文字があります。
神田上水の水番に従事するかたわら、蒲焼屋も併設していたようで、江戸時代の微笑ましい情景が目に浮かびます。
神田川で採った鰻を料理したのですから、さぞかし美味しかったことと思います。
(市兵衛河岸跡)
さらに東京ドーム方向に進みます。東京ドームの道をへだてたあたりに「市兵衛河岸」の碑があり、この付近が神田川の水際に作られた物揚場(ものあげば)だったことが書かれています。

後ろには「神田川市兵衛河岸防災船着場」の看板もあります。緊急時にはこの船着場が利用されるのですね。

ところで、この付近には「岩瀬市兵衛」の屋敷がありました。岩瀬市兵衛は地名の由来にもなった人ですが、幕末に重要な働きをしています。
嘉永8年(1853年)ペリーの来航後、アメリカとの交渉に当たり、特にアメリカ領事ハリスと交渉して日米修好通商条約に調印した人物です。
(水道橋駅)
さて、最終目的地の水道橋駅に着きました。

写真を見ればお分かりの通り、高いところに駅が設置されています。
これは、江戸時代に作られた土塁の上に鉄道路線が敷かれたからです。
江戸時代の遺構が現代でも使われていることが分かります。
(吉祥寺)
最後に吉祥寺の話をします。水道橋北詰右手にある都立工芸高校一帯には、吉祥寺というお寺がありましたが、
この吉祥寺は、明暦3年(1657年)の明暦の大火で焼失し、現在ある駒込に移転させられ、
この吉祥寺の学林(僧侶の教育機関)を母体にして駒沢大学ができました。
お寺は駒込に移転させられましたが、門前に住んでいた住民は現在の武蔵野市東部に移住し開拓を行い、
吉祥寺に愛着のあった住民は開拓地を吉祥寺村と名付け、これが現在の武蔵野市吉祥寺となりました。
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これで「お茶の水→水道橋散策」シリーズを終了します。長期間お読みいただきありがとうございました。
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