お茶の水→水道橋散策(2):神田明神/天野屋/明治天皇御臨幸記念碑と平将門/銭形平次/旧万世橋
- 2018/08/18
- 14:13
前回のお茶の水→水道橋散策(1)では湯島聖堂に行きましたが、今回は湯島聖堂のすぐ近くにある神田明神に行ってみます。

(神田明神と天野屋)
神田明神の入り口に「天野屋(あまのや)」という甘酒屋さんがあります。(看板の「野」の字が特殊でここでは書けませんが)

創業が弘化3年(1846年)という老舗です。
京都・丹後の宮津藩の出で天野新助という武士が、殺された弟の仇討をするため、神田明神の前にいれば仇が現れるだろうと考え茶店を出したが、結局、仇は現れず店が家業になったという逸話があります。
現在のお店のオーナーは六代目だそうです。
こういう逸話があるほど、江戸時代から神田明神には多くの人達がお参りに来ていたということです。
☆☆☆
(神田明神と平将門)
神田明神の創建地は、元々は、丸の内・八重洲のちょっと知らない史蹟・見どころ(2)でご説明した「将門の首塚」の地にありました。つまり皇居のほとり、三井物産ビルの東側にありました。
その後、神田明神は江戸城の増築に伴って神田台に、さらに現在地に遷座しました。
このような経緯から分かるように、
神田明神では縁結びの神様と言われる「大黒様」、商売繁盛の神様と言われる「恵比寿様」に加えて、「平将門」の3柱を御祭神として祀っています。
☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆
明治7年(1874年)に明治天皇が神田明神に行幸する時のことですが、
天皇が参拝する神社に、朝廷に謀反を起こした逆賊である「平将門」が祀られていることはあるまじきこととして、平将門が祭神から外されたことがあります。
この時、神田の人々はこの決定に反発し、神田祭をボイコットしたそうです。
下の写真は神田明神にある「明治天皇御臨幸記念碑」ですが、この記念碑にはこのような複雑な事情があったわけです。

しかし、その後、氏子崇敬者の懇願により、昭和59年(1984年)に「平将門」は神田明神の三ノ宮御祭神に復座しました。復座するまで、なんと100年以上かかったのですね。
神田の人々の心意気を示す話ですが、
丸の内・八重洲のちょっと知らない史蹟・見どころ(2)で、
「平将門は朝廷に対抗した謀反人として扱われたりしますが、当時の朝廷の圧政に苦しむ関東の民衆のために戦った人物として、関東では人気の高い人物です」
と書いたように、現代でも平将門人気は続いています。
(神田明神と銭形平次)
銭形平次は架空の人物ですが、
「銭形平次捕物控」(野村胡堂著)の主人公・銭形平次が神田明神下に住んでいたという設定から、境内に「銭形平次の碑」があります。

台座や石柱の頭に、銭形平次が投げ銭として使った「寛永通宝」のモチーフが彫られて、凝った碑になっています。

(神田明神と旧万世橋)
私たちは神田川に沿って歩いているので、神田川に関係した史蹟も見てみましょう。
ちょっと分かりにくいのですが、本殿裏手にある細い通路に入ると(下の写真を参照してください)、

旧万世橋の親柱と欄干が保存されています。「元」の字は鋭角に彫られているので後から彫り込んだようです。

(神田明神と古石神井川)
銭形平次は、野村胡堂の小説では、「神田明神下」に住居を構えていたという設定になっていますが、
この「神田明神下」が低地にあることを写真でお見せします。
下の写真は、「神田明神下」を神田明神から撮ったものと神田明神下に行く「明神男坂」ですが、

かなりの急峻な崖ですね。
このような崖(または坂道)がこの神田明神の東側から妻恋神社を経て湯島天神まで続いています。
この崖(または坂道)は古石神井川が侵食してできたものだそうです。
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(神田明神と天野屋)
神田明神の入り口に「天野屋(あまのや)」という甘酒屋さんがあります。(看板の「野」の字が特殊でここでは書けませんが)


創業が弘化3年(1846年)という老舗です。
京都・丹後の宮津藩の出で天野新助という武士が、殺された弟の仇討をするため、神田明神の前にいれば仇が現れるだろうと考え茶店を出したが、結局、仇は現れず店が家業になったという逸話があります。
現在のお店のオーナーは六代目だそうです。
こういう逸話があるほど、江戸時代から神田明神には多くの人達がお参りに来ていたということです。
☆☆☆
(神田明神と平将門)
神田明神の創建地は、元々は、丸の内・八重洲のちょっと知らない史蹟・見どころ(2)でご説明した「将門の首塚」の地にありました。つまり皇居のほとり、三井物産ビルの東側にありました。
その後、神田明神は江戸城の増築に伴って神田台に、さらに現在地に遷座しました。
このような経緯から分かるように、
神田明神では縁結びの神様と言われる「大黒様」、商売繁盛の神様と言われる「恵比寿様」に加えて、「平将門」の3柱を御祭神として祀っています。
☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆
明治7年(1874年)に明治天皇が神田明神に行幸する時のことですが、
天皇が参拝する神社に、朝廷に謀反を起こした逆賊である「平将門」が祀られていることはあるまじきこととして、平将門が祭神から外されたことがあります。
この時、神田の人々はこの決定に反発し、神田祭をボイコットしたそうです。
下の写真は神田明神にある「明治天皇御臨幸記念碑」ですが、この記念碑にはこのような複雑な事情があったわけです。

しかし、その後、氏子崇敬者の懇願により、昭和59年(1984年)に「平将門」は神田明神の三ノ宮御祭神に復座しました。復座するまで、なんと100年以上かかったのですね。
神田の人々の心意気を示す話ですが、
丸の内・八重洲のちょっと知らない史蹟・見どころ(2)で、
「平将門は朝廷に対抗した謀反人として扱われたりしますが、当時の朝廷の圧政に苦しむ関東の民衆のために戦った人物として、関東では人気の高い人物です」
と書いたように、現代でも平将門人気は続いています。
(神田明神と銭形平次)
銭形平次は架空の人物ですが、
「銭形平次捕物控」(野村胡堂著)の主人公・銭形平次が神田明神下に住んでいたという設定から、境内に「銭形平次の碑」があります。

台座や石柱の頭に、銭形平次が投げ銭として使った「寛永通宝」のモチーフが彫られて、凝った碑になっています。


(神田明神と旧万世橋)
私たちは神田川に沿って歩いているので、神田川に関係した史蹟も見てみましょう。
ちょっと分かりにくいのですが、本殿裏手にある細い通路に入ると(下の写真を参照してください)、

旧万世橋の親柱と欄干が保存されています。「元」の字は鋭角に彫られているので後から彫り込んだようです。

(神田明神と古石神井川)
銭形平次は、野村胡堂の小説では、「神田明神下」に住居を構えていたという設定になっていますが、
この「神田明神下」が低地にあることを写真でお見せします。
下の写真は、「神田明神下」を神田明神から撮ったものと神田明神下に行く「明神男坂」ですが、


かなりの急峻な崖ですね。
このような崖(または坂道)がこの神田明神の東側から妻恋神社を経て湯島天神まで続いています。
この崖(または坂道)は古石神井川が侵食してできたものだそうです。
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